東ノ手から

信州上田市の東側にある神科(かみしな)台地。さらにその東側にある「東ノ手」近辺からのブログです。

大地と対話する老人とタブレットに触れる今人

このごろ思う事なんですが、散歩しているといつも同じ畑に老人の方が黙々と働いています。僕が通りすぎることなんてわからないのか?全く気にしている様子はありません。そのご老人の年齢まではわかりませんが、80歳近いかそれ以上のお年ではないかと推測されます。だから、彼の声も聴いたこともなければ、顔もわかりません。

僕の散歩コースはパートナーのヒゲンちゃん(トイプードルのオス。11歳)と相談しながら決めています。けっこう様々なコース歩くのですが、この畑の前はほとんど毎回通過します。ご老人は時には地面に座り込み、時には枝を整理したり、時には何か燃やしています。もう秋も深まった今頃ですから、収穫するものもそろそろ終わりなのでしょうが、必ず何かをしています。どうみても大地を見つめ、大地と対話をしているように思えます。

一方で、僕もよくやっていますが、耳にイヤフォンを押し込み、スマホやタブレットの画面をただひたすら見つめている今の人達がいます。なんだか圧倒的に多い人達です。大地を見つめる人はほんのひとにぎりで、もうそういう人は絶滅してしまうのかなと思うほどです。時代だとはいえ、何がしかの危機感やさみしさを感じてしまいます。僕も、タブレットやPCの画面を見つめている時間が圧倒的に多いので、一応、今の人なんでしょうが、昔ながらの生き方を伝統的に続けている人達がいることを忘れてはいけないとも思うのです。

老人世代と若い世代には時代格差があることは否めませんが、それぞれが勝手に生きているように見えてしまうと、世の中これでいいのかな?なんて思ってしまうのですが、自分の前に見えている断片的光景だけで判断しがちなのかと思います。

やはり、日本人の伝統的な魂がきちんと若い世代にも受け継がれているかどうかなのかではないかと思うのですが、そうであれば、それぞれが勝手に自由きままに生きていたとしても自然と世の中のバランスも取れるものなのかもしれません。

それは、昆虫や植物が種の存続のために生きていることと同じなのかもしれないのですが、グローバルなこの時代に日本人がどう生きてゆくのかという課題を常に投げつけられていることには変わりないのだとも思います。

愛犬と散歩していても動物は素直なもので、そこにはピュアな心が輝いています。

自然の摂理に逆らわずに生きていたいものですが、多くの人間と関われば関わる程、不自由になりがちです。そしてあまりにも個人主義というか自分のことしか考えない身勝手さは人間にとってどうしようもないことでもあります。

常に、相手のことや他人のことを考えてこれがベストという判断や行動ができるかどうかとなるとこれもなかなか難しく、後で反省することも多いものですが、たとえ波乱万丈であっても見つめるべき方向性は失わないようにしたいものです。